私の宗教を晒す。

概要

本記事は宗教とは、から個人的に開拓を試みたものです。決して反社会的だのの思想の下などと言う如何わしいものではありません。可能な限り汎用的になるよう抽象的な表現を心がけた結果迷走したものです。

目的

本記事を通してより多くの人に幸せになってもらいたいと思っています。要は布教です。

宗教の定義っぽいもの

宗教とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり[1]、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。(wikipedia)
とありますが、私の思う宗教の形は少し異なっています。私の思う宗教とは「AをBすることで幸福を得られる」の”考え”の下での概念、行動そのものです。要は験担ぎです。その”考え”においてはすべての信者はここに対峙するため、集団であるかは問題ではないと考えています。また、「教え」というものは、”考え”におけるA、Bの探し方のヒントであるのだろう、と考えています。うまく言葉で表現できませんが、徐々に宗教観を表現していければ、と考えています。

現代の宗教から

現代において宗教と言われると、怪しい新興宗教など、玄関扉を叩く印象があるかもしれません。しかし、形の変えた宗教は多くあると思っています。アイドルの追っかけなどはまさに現代の宗教と言っても過言では無いと思っています。80年代に比べ、偶像(アイドル)っぽさは変わった気がしますが、応援し共に成長という形は変わっていません。おっかけ(ファン)が多くいることで顕著になるのが、共通の宗教でありながら、多くの派閥、更には個々の”考え”があります。具体的な個人の”考え”としては、「グループより推し」「ファン仲間」など異なる目的があると思います。私の宗教観においてはこれら特定のアイドルに向けた信仰であっても個人の考えが異なる時点で、別の宗教だと考えています。

おすすめと派閥

共通の信仰先であっても異なる派閥は異なる宗教である点において、派閥間の争いは、「強いおすすめ」ではないかと考えています。(狂信者を除いて)私の布教の前提条件として、「自身が幸福であること」を掲げたいと思っています。自身が幸福であってそれを他人にも教えて幸福を共有したい、故の争いであり、おすすめであり、布教にあると考えています。
余談、狂信者は手に負えません、もはや「他人の宗教の冒涜が幸福」という宗教としか考えられません。
私の宗教のすすめ
私は現在自我を保っている時点で幸福であることがわかっていますので布教します。私は、「自分の宗教を始める教」の布教をします。この宗教は何にでも付けられる、という点において新しく教えを実行する必要がありません、既存の験担ぎ、趣味、お気に入りの何かに対して、「これがあるから幸福でいられる」という自覚を心がけます。また、他人のこだわりに対して、良いものであっても悪いものであっても、それが彼の宗教であり尊重されるべきであり、他人の宗教の冒涜は厳禁であると考えます。以上ですが、一定の効果はあります。1つに「宗教、幸福」という単語に強くなります。よりふわふわした単語と理解することで実体がつかめます。それにより宗教の勧誘に強くなります。1歩後ろから見渡せるので、彼らが幸福でない時点で…ということに気づけます。また、逆に狂信的なこだわりを宗教として理解してゆるいアウトプットを心がけることが可能となります。
ちなみに、幸福は間に合ってる、と言った内容で実際に追い返したことはある。彼らの話も曖昧だけど面白かった。

まとめ

こんな感じで私の宗教を晒しましたが、色んな方の自分の宗教観を聞いてみたい(そして自分のを改良したい)と思っていますのでぜひお聞かせください。